稲佐山のかなた・福田

 司馬遼太郎は『街道をゆく』の「肥前の諸街道」の著書を書くにあたって長崎市の西海岸「稲佐山のかなた・福田」地区を詳細に検分されていることに驚きをもった。

司馬さんが来られた頃はまだこの地に遊園地があり園内・周辺や、福田の路地なども散策されたようだ。路地幅は当時とそんなに変化がないものの、立ち寄られた商店らしき所は既にない。

この著書の中で、16世紀の平戸貿易時代のポルトガル船は、福田をもって嵐か凪の途中の待避港にしていたのではないかと書かれている。

ポルトガル船が嵐に遇い、福田に漂着したのは偶然によるものだが、その先に長崎という良港があるのを実地に検分済だったことも「洋人日本探検年表」から引用されている。

ポルトガル船の時代から時が移り、幕末、鎖国時代に我が国と貿易が出島のオランダ以外に叶わなかった、ロシア、イギリス、アメリカ等の艦船が貿易を求めて、長崎港外はもとより九州沿岸に出没したことに伴い、長崎港を警備する各藩によって台場(砲台)が設けられた。その一つ、安政2年(1855年)に設置されたという福田台場の跡が現在の福田中学校の南側にひっそりとある。

福田台場の前の海には美しいヨットハーバーがあり、2年前には「第69回長崎がんばらんば国体」のヨットレース会場ともなる。今も多数のプレジャーボート・セーリングボートを楽しむ人々がいる。併設されているサンセットマリーナの前には開放された緑の芝生と青い海が広がりそこを憩いの場として集う人々でいつも賑わっている。


 

国道202号線通称サンセットロード「稲佐山のかなた・福田」は、遠く角力灘に沈む入日が素晴らしく、カメラを携えその瞬間を待つ人々、芝生のテラスでグラスを傾けて入日に乾杯する人々・・・

運が良ければ角力灘に蜃気楼が現れるかもしれません。