長崎市の水がめ浦上水源地その源に大物あり

 長崎市と長与町にまたがる浦上水源地は1945年(昭和20年)2月11日に完成された。

今も昔も公共工事には地主との紛争が堪えないものではあるが、ある人物によって・・・・・

 

浦上水源地          
浦上水源地          

長崎市が長与村(長与町となるのは1969年昭和4411日)と長崎市にまたがって貯水池(浦上水源地)を建設しようと、用地買収交渉を行っていた時のことである。この交渉は難航していた。 

当時長崎市の水道部長がこの交渉の席上で、先祖が長与村出身の内務省初代衛生局長 長与専ながよせんさいの話を持ち出した、「長与専斎の発議によって水道条例を起草し公布された。水道にとっては大恩人であるので、浦上浄水場が完成した暁には湖畔に記念碑を建立する計画である」と話したところ、地主全員が感動して用地買収に応じたということが『長崎水道百年史』の記事の中に見られる。それほど長与専斎のイメージは当時の長与村民に親しみを持って生きていたのであろう。残念ながらこの記念碑の建立は戦争激化のため中止となったらしい。(長与町郷土誌 下より)

 

長与専斎   
長与専斎   

長与村出身の長与専斎の名は、『公衆衛生』を学んだことのある人は『衛生』の言葉を最初に使った人としてご存知かもしれない。

明治8年頃流行した天然痘に対し種痘を広め、長崎から始まったコレラの流行に対して海港検疫の諸規則を設け、さらに医学校の設立、医師の試験制度に至るまで、医療制度全般の制度の確立と基礎を造った人である。

 

これらの業績をたたえ、銅像が大村市民病院や長崎医療センター(大村市)に建立されています。

長崎医療センターの大きな正門を入るとすぐ左手に旧宅とともにあります。 

病院見舞い等で大村へ行く機会がありましたら、ぜひ気にかけてください。

 

浦上水源地(長崎市と長与町との位置関係)
浦上水源地(長崎市と長与町との位置関係)

長与専斎の略歴

・安政2年(1855年)大阪で緒方洪庵経営の「適々斉塾」で蘭学を

   遊学中、 祖父の死を知らされ、勉学を辞めて帰藩する決意を

   るが洪庵の 説得で塾に残る。

・安政5年(1858年)福沢諭吉の後を受け塾頭に推される。

・文久元年(1861年)師の許しを得て長崎に下り、蘭医ポンペに師事

・文久4年(1864年) 34歳の時、医学調査委員として欧米各国を

   巡遊。帰国後、医務局長・貴族院議員・宮中顧問官などの要職

   につく。近代医学制度の基礎作りに大きく貢献。 

   中央の人として実績を残し、惜しまれて明治35年9月8日死去65歳