浦上教会の歴史

浦上山里村は戦国時代の末頃からキリシタンの村であり、その強い信仰が現在まで伝承されてきた。

1614年の禁教令から,1873年にキリシタン禁制の高札が撤去され信仰の自由が認められる約260年の間密かに信仰が守られてきた。


信教の自由を手に入れた浦上の信者たちは、江戸幕府のキリシタン弾庄下に、心ならずも行い続けてきた崇敬する聖画像を踏む「絵踏」の冒涜の償いとして、庄屋高谷家の跡地を購入し、20年の歳月を経て、赤煉瓦造りの天主堂が1914年完成した。

 

浦上天主堂は、ロマネスクを模したアーチの玄関、白大理石イオニア風の円柱、赤煉瓦の壁面など、

東洋一といわれた。          

信徒発見

鎖国時代を終え、1858年安政の五か国条約が締結され、長崎も開港と外国人の居住と貿易が認められた。フランスの条文規定により、1865年居留地内にフランス人の為の礼拝堂・大浦天主堂が献堂された。当時の長崎の人々はその荘厳さに目をみはり、連日 見物に押し掛けた。

その中に浦上のカトリック信者も混じっていた。

そして天主堂で祈っていたプチジャン神父に浦上の信者

杉本ユリがそっと近づき「ワタシノムネ アナタノムネトオナジ」

「サンタ・マリアノゴゾウハドコ?」とささやいた。
このことは250年に及ぶ潜伏キリシタンが終わり「日本のキリシタン復活」と称賛されている。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」世界文化遺産登録を目指している。

浦上四番崩れ「旅」

1865年の 信徒発見からおよそ2年後、浦上キリシタンは、ほとんどの村民が表面上仏教という檀那寺との関係を破棄。寺受け制度の拒否を庄屋に申し出た。

明治新政府時代に入っても神道国家主義政策の下、全村民3,394名が21藩22ヶ所へ流配にされ類のない厳しい拷問を受け棄教を強いられた。
6年有余の長い間、数々の苦しみに堪え1873年禁教が解かれ帰郷したが、その間約600人が殉教したとされる。今年150年の記念事業が行われた。

信仰の礎 

信仰を守り抜いて帰郷した信徒達が公教復活50年を記念して建てたもの

浦上四番崩れ150周年記念碑

(浦上教会正面右側)

萩の拷問石

鉄砲責、寒晒などの拷問の時、信者が座らせられた石。2008年7月浦上天主堂に安置された。


※: 崩れ(くずれ)とは、1つの地域で大勢のキリシタンの存在が発覚する事件。

「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件。

「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件。

「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ

 拷問を受けた事件のことである。「引用 Wikipedia」