伊王島(2) 俊寛伝説

 伊王島 ここには昔からの不思議な「俊寛」伝説がある。

俊寛とは、後白河上皇の仏事を執行した側近で平安時代末期、平家打倒の企てが平清盛に発覚し流刑に処せられた俊寛(しゅんかん)僧都(そうず)である。

「平家物語」によると流されたのは鹿児島県の喜界島と言われているが、流刑先は長崎市の伊王島だったという伝説である。島東部の丘の上には墓碑が立っている。

1177年、企てが発覚した俊寛は貴族らと流刑になったが、貴族らは許され1人だけ島に残された。その後妻子が亡くなった事を伝え聞き、食を絶って自害したという。

1755年、伊王島の墓碑のある場所に俊寛を弔う長福寺ができ、翌年に長崎の儒学者らによって墓碑が建てられた。長福寺が廃寺となった後、寺が所蔵していた俊寛の肖像画は近くの円通寺に引き継がれた。 墓碑は1843年に台風で倒壊し、2年後に再建された。

俊寛僧都墓碑
俊寛僧都墓碑
俊寛僧都お墓
俊寛僧都お墓
北原白秋の歌碑
北原白秋の歌碑

 1935年、伊王島を訪れた北原白秋は俊寛を哀れむ歌を詠んだ。

   「いにしえの流される人もかくありて すゑいきどおり海を睨みき」 

 

15年後、この歌を刻んだ石碑が県内の文人や地元の有志の手によって墓碑の横に建立された。

 

 放送大学の授業科目「演劇入門」のなかで「俊寛」の創作が取り上げられている。

「平家物語」を題材に「能」の俊寛は人間の孤独、絶望をテーマとして取り上げ、その「能」を題材に近松門左衛門が「平家女(へいけにょ)(ごの)(しま)」という作品を書き、これが「文楽」の男女の恋その恋によっておこる家族の事件へと展開していく。さらに「歌舞伎」の俊寛は近松の台本に表情とリアリティを植えこみ、二代目中村吉右衛門が得意とするものである。

「平家物語」を中心に四つの「俊寛」が存在すると紹介されている。

 

 長崎市の伊王島での俊寛さま・・・・流刑地も諸説あって花を添える。